ぎふの歴史

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岐阜の由来

ぎふの歴史

信長が命名、由来は中国の故事とも

「岐阜(ぎふ)」という珍しい地名は、県外の方には読み方が難しいかもしれません。命名したのは織田信長といわれています。
稲葉山城(現在の岐阜城)に居を移した信長が、城下の「井口(いのくち)」という地名を「岐阜」と改称。これには、尾張の政秀寺の禅僧である沢彦宗恩(たくげんそうおん)が進言した「岐山・岐陽・岐阜」の3つのうちから選んだといわれています。沢彦和尚は、天下統一を目指す信長のため、中国の「周の文王、岐山より起り、天下を定む」という故事から地名を考えたとされています。(「安土創業録」から)
なお、信長が名づける以前から禅僧の間で「岐阜」という地名が使われていたともいわれ、その由来には諸説あります。

岐阜と信長

ぎふの歴史

織田信長の政治手腕

岐阜城に入城した信長は、型破りな発想で政治手腕を発揮しました。
まず打ち出したのが「楽市楽座」。特定の商人しか商売が許されなかった時代に、誰もが自由に商売できるシステムを築き、戦乱で荒廃した町を復興させました。二つ目は、「兵農分離」。専業の武士団を組織して兵士と土地を切り離すことで、経済力、武力、生産力を向上させ、人が集まる城下町を作り上げました。

天下を決する戦の舞台

飛鳥時代から江戸幕府まで、幾度にわたり繰り広げられた天下を決する歴史的戦!
その舞台が、ここ岐阜です。

ぎふの歴史
壬申の乱

672年、天智天皇死後の皇位を巡り、天智天皇の同母弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)と息子・大友皇子(おおとものおうじ)との間で争いが起きた日本の古代史上最大の戦乱です。
大海人皇子が本拠地を置いたのは現在の関ケ原町の丘陵地とされ、美濃国を拠点に勝利した大海人皇子は天武天皇となり、律令制度の整備や中央集権化を推し進めました。

ぎふの歴史
承久の乱

1221年、後鳥羽上皇が朝廷中心の政治を取り戻すため、鎌倉幕府を討ち滅ぼそうとして起こした戦いが「承久の乱」です。鎌倉を中心とする東日本(幕府)と、京都を中心とする西日本(朝廷)、日本を2分した戦いは、幕府軍の圧倒的勝利に終わりました。両軍の主力が激突したのが木曽川の前渡(まえど)で、現在の岐阜県各務原市にあたるという説もあります。

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関ケ原の戦い

天下を統一した豊臣秀吉の死後、実権を握りつつあった徳川家康に反発した石田三成が挙兵。1600年、家康を大将とする東軍と、石田三成を中心とする西軍が激突したこの戦いの後、家康は征夷大将軍として江戸幕府を開きました。「天下分け目の戦い」として名高い激戦の跡地は岐阜県関ケ原町全体に点在し、今でもその痕跡をたどることができます。